育児の自己責任論は、本当に正論か
- dad-k1
- 2017年4月24日
- 読了時間: 3分

「子どもが欲しいと思ったのは自分だろぅ、それで育児は大変だということはワガママだよね。だいたいさぁ、最近の親は根性が無いんじゃないの。自分が若い頃はなんかは家電も今ほど充実していなかったなんだから、もっと大変だったよ。だからさ、それくらいで音を上げるくらいなら子どもなんて持たなかったよかったのに....」
自分がやったのだから、そうあるべきだと人はいう。育児や教育に関しては、経験者も多いため、自己の経験のみで判断し、意見する。
これが世間で言う「育児の自己責任論」だ。一見するとすごく正しいように思える。確かに一般的には個人が望んだことは、個人が責任をとるべき話だ。
しかし、それは出生率が高く、持続的な社会運営ができていた、ある時点までの正論。現在は急激な人口減少社会に突入し、その負の影響がでるのはこれからだ。
そもそも、育児というは個人の幸福のためでもあるけれど、社会にとっても必要なことである。少なくとも今後の日本の状況を考えると、もはや正論ではない。なぜなら、今までのやり方では結果が出せていないからだ。
結果とは、日本社会を持続させることだ。そのためには、ある程度の労働力が必要となる。子どもを増やすことが唯一の選択肢ではないが、国外から習慣もマナーも異なる移民を大量に受け入れるか、人間の仕事をロボットに全てやらせるか、戦略的に子どもを増やすか、いずれかの方法をとらない限りは労働力不足問題は解決しない。
そのどのオプションを社会として選択するのか、国民で大論争になったこともない。しかし、おそらく日本人の心情からすると、戦略的に子どもを増やす選択がもっとも受け入れやすい。
それを考えると、今日はよかったのだから、明日もよいという、楽観的でミクロ的なの見方で判断すべきではない。自分はやったからお前もできるという根性論では出生率という結果は出せない。
子育てを自己の経験に基づいて自己責任論にしていいのは、少なくとも出生率を2にしてからだ。もしくは、大量の移民を受け入れるか、ロボットに仕事をやってもらうかの選択を取る覚悟を持ったときだ。そのどれもできないのならば、少なくとも自己責任というべきではないし、ワンオペ育児をしているお母さんや、会社を定時退社しているイクメンお父さんを責めるべきではない。
そのかわりに、将来の日本を支える人材育成を行っている彼女らの雇用を確保し、経済的支援ができる社会保障制度の見直しを行う。個人レベルではせめて、保育園の送り迎えを行う社員に対していやみを言うことや、子どもがぐずった時に咳払いするのをやめる。
それくらい温かい目で見守る許容が、出生率の向上という結果を出すために必要だということを、そろそろ社会としての共通認識としなければならない。
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